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●田楽の始まり
 おでんは田楽から発展したといわれています。では、その田楽はいったいどんな物だったのでしょうか?
 今では田楽と聞けばコンニャクを思い浮かべる人が多いようですが、最初は豆腐が使われていました。また、豆腐やコンニャクではなく、里芋やジャガイモを田楽にして食べる地域も各地に点在しています。
 豆腐は中国から持ち込まれたようですが、その来歴ははっきりしていません。長い間、さまざまな料理に使われ、江戸時代には『豆腐百珍』という料理書も生まれました。そのなかのひとつに田楽があったのです。豆腐田楽
 田楽は豆腐を串に刺して、軽く焼いた後に味噌などを付けて食べる物で、文献に初めて登場するのは室町時代のようです。なかには、山椒の若芽を味噌にすり込んでから付けた「木の芽田楽」、きつね色に焼いてから醤油や柚子を添えた「きじ焼き田楽」などがありました。
 当時の上方では叉のある串を使い、砂糖を入れた白味噌を付けていたそうです。一方、江戸では叉のない串を使い、赤味噌を付けていました。江戸後期には、この串を見て田楽の産地を言い当てることを楽しんだ様子も伝えられ、それだけ庶民に親しまれていた食べ物だったと想像できます。

 また、田楽の名前の由来は、平安時代から行なわれていた伝統芸能の「田楽」から取られたというのが通説です。これは、田植えのときに田の神を祀るために、笛や太鼓を鳴らして田の畦で歌い舞った「田舞」が起源といわれています。
 やがて専門の田楽法師が生まれ、笛やささらなどの楽器を用いた群舞と、高足に乗って玉や刀を使った曲芸を生業にします。「高足」というのは、7尺(約2m)くらいの棒の下から1尺(約30cm)くらいの所に貫棒が刺さっていて、そこに両足を乗せて歩く道具のことです。
 そして、この高足の形や、田楽法師が踊る様に似ていることから、串に刺した豆腐が「田楽豆腐」と呼ばれるようになったのでしょう。

●田楽茶屋の出現
 江戸時代も宝永年間(1704〜1711)のころまでは、街道沿い以外に“飯屋”がありませんでしたが、宝暦年間(1751〜1764)前後になると、少しずつ、餅や田楽、煮しめを売る店が現れてきます。
 そして、天明5(1785)年の大飢饉をきっかけにして、急速に屋台が増え始めました。辻売りや大道売りも盛んに行なわれるようになり、飯屋・居酒屋・茶漬屋が店を構え、人々でにぎわいました。
 そして、うどん屋・鰻屋・団子屋・そば屋などが現れるのと平行して、田楽の種類も豆腐・ナス・里芋・コンニャク・魚などと増えました。魚の場合は、「魚田(ぎょでん)」と呼ばれ、味噌を表面に塗る以外に、背割りにしてなかに詰めたこともあったようです。

 串に刺してあった田楽は、その手軽さから江戸時代の庶民のスナックとして人気を博しました。なかでもコンニャクの人気が高く、江戸時代の娘の好きな物として、芝居・コンニャク・イモ・タコ・カボチャが挙げられたほどです。
 コンニャクは平安時代から食され、肉食を避ける精進料理の食材として使われてきました。健康的な風潮が流行したのか、コンニャクはこの時期にすごい勢いで広まっていったようです。コンニャク田楽
 ちなみにコンニャクはインドシナ半島の原産で、仏教の伝来とともに中国から日本に伝えられましたが、現在、栽培と利用が行なわれているのは日本だけ(雲南省の一部では食されるようです)。成分のほとんど(約97% )が水分なので、低カロリー食品として現代でも注目されている食品のひとつです。

●田楽からおでんへ
 江戸時代に普及した「田楽」が今の「おでん」になるまで、まだまだ不明な点があります。江戸後期には煮込みおでんが現れていたという説、明治期にできたという説、関西で最初に作られたという説など、さまざまな主張があるようです。
 ただ、「おでん」という言葉は江戸時代から使われていました。その昔、宮中に仕えた女官たちが、隠語として「田楽」のことを「おでん」(おでんがくの略)と呼んでいたというのです。このような言葉を「女房詞(にょうぼうことば)」と呼び、将軍家に仕える女性から町家の女性に広がっていきました。

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